ブロック長から学んだ「信心の戦い」

先日、壮年部の会合がありました。その会合連絡を組織からメールで受けた私の心境は“何のための会合か”が伝わってこない、“この時期にいつもやっているからやる”のではないか、というように思いました。地域の壮年部が参加して良かったと思う会合になるようには私には思えず、そんなモヤモヤした気持ちのまま、地域の壮年部の皆さんに消極的に連絡をしていました。

 

そんな中、あるブロック長の方が仕事が多忙な中、必死に家庭訪問し、当日の参加を呼びかけてくださっていました。ブロック長さんいわく、「皆さんに信心の喜びを伝えたい」と。

 

私は自分が心底恥ずかしくなりました。「仏縁の拡大のチャンス」と捉えたブロック長と、自分で勝手に会合を「評価」したうえで、意味を見いだせないまま連絡をするという無責任な行動をとった私。打ち出された一つの会合を、「信心」で前進の力に変えたブロック長と、「気分」のまま自分と向き合うことの無かった私。真の信仰者はどちらであったかは明白でした。

 

会合が素晴らしいかどうか、ではない。素晴らしい会合だった、集って良かったと参加者に思わせてみせる、との気迫と心配りがブロック長にはありました。ブロック長は幹部に集った壮年部員さんを激励してもらえるようにと、会合終了後、幹部のもとに連れて行き、その壮年部員さんが普段どれだけ頑張ってくださっているかを必死に伝えていました。

 

私はその光景を目の当たりにして、無明に覆われていた自分自身の信心の実情をはっきりと認識し、打ちのめされました。打ち出しに対して疑問やモヤモヤを感じることは誰にでもあることだとしても、それを前進の力に変えていくところに「信心の戦い」があるのであって、「気分」で留まっていては自身の成長は望めないのだと痛感しました。

 

今回、自分の慢心と無責任さを改めて自覚する機会となりました。あまりにも反省すべきことが多いのですが、今後、打ち出し内容によっていかなる「気分」が生じたとしても、地域の皆さんにお伝えする前に、自身の内面で消化し、昇華するところまで自身と向き合う「信心の戦い」をしていこう、私の責任を果たしていこうと決意しました。