私の地区の「座談会改革」

記憶が定かではありませんが、いつからか座談会の時間が90分から60分に短縮されるようになりました。そうなったのはもうだいぶ前のことだったと思います。

 

創価学会の代名詞でもある「座談会」ですが、近年は課題も多くなってきており、私の地区でもより良い座談会のための話し合いを繰り返してきました。

 

まずは座談会の原点に立ち返ろうと、座談会の魅力について皆さんと話し合いました。様々な意見が出されましたが新・人間革命の一文にある「信仰の深化は生命対生命の交流、すなわち『感応の妙』によってなされ、その場こそが座談会である」というのが皆さんの実感でした。それが最も生じるのは全員発言のコーナーで、参加者の心の声を聞いた時だというのも共通の時間でした。また話をした人自身も「共感してもらえた」という思いが新たな前進の息吹につながっているということでした。

 

90分から60分に、30分の時間が短縮された訳ですが、どうしてもそのしわ寄せがきてしまうのが「参加者が話す時間」でした。これまで通り全員が話そうとすると時間の関係で本当に一言で終える方が増えました。時には全員発言をやめて代表数名に話していただくなど工夫をしたこともありましたが、そうすると頑張っている人にだけ光が当たりやすくなりました。一言も話さない参加者が増えたことで、座談会の「生命対生命の交流」という魅力が低減してしまい参加者の笑顔も少なくなっていきました。

 

地区の皆さんと毎月の座談会で試行錯誤を重ねましたがうまくいきません。そんなある日、地区の壮年部員さんが提案してくれたのが「ブロックトーク」でした。これは座談会のなかでこれまでの全員発言コーナーを小グループに分かれて行うというものでした。

 

例えば座談会に30名が参加していたとして、全員発言コーナーの時間が20分だった場合、一人当たりの話す時間は40秒しかありません。コーナーが30分あったとしても一人当たりの時間は実質1分に満たないことになります。中には2分話す人もいたりして、話す順番が後の方にしわ寄せがきます。

 

先日の私の地区の座談会では参加者が32名でした。「ブロックトーク」の時間は30分。私の地区は3ブロックのため約10名のグループを3つ作りました。こうすることで一人当たりの持ち時間は約3分に増えます。ただ、せっかく地区で集まっているのに話が共有できるのがブロックの10名ほどに限られてはもったいないので、ブロックトークを24分にして、残りの6分を各ブロックの代表1名に話をしてもらう時間にあてました。

 

実際にやってみると小単位のグループにしたことで一人ひとりがより話しやすい「おしゃべり」に近い雰囲気になりました。普段は30名の前で話すのは遠慮していた方も笑顔で話してくださっていたのを垣間見た時は嬉しかったです。あっという間に24分が過ぎ、アットホームな雰囲気の中で各ブロック代表の発表に。個人の話をする方もいれば、ブロック長が代表して皆さんの話をかいつまんで紹介したりと、グループごとに色が出ていたことがとても良かったです。

 

盛り上がりすぎて結局30分をオーバーするという事態になりましたが(汗)、参加者の笑顔を見て近年で一番良い座談会にできたと確信できました。

 

この「ブロックトーク」はブロックの枠でなくてもできますし、参加者が多い時でもグループ数を増やせば一人当たりの話す時間は確保することができるなど、汎用性がある点も実用的だと感じています。また、担当幹部にもどこかのグループに入ってもらうことでより全体が打ち解けた雰囲気にすることができ、最後の担当幹部の話も聞きやすくなりました。

 

私の地区ではどちらかというと参加者意識の強かったブロック長が、自分が中心となるコーナーができたことで主体者意識が強まったのも良かった点です。毎月の座談会の「ブロックトーク」が「ブロック座談会」の役割を兼ねることにもなり、各ブロック員さん同士のつながりも強くなっていると感じます。

 

池田先生は「広宣流布の前進は、座談会に始まり、座談会に終わる」と言われています。
座談会の時間を充実度はそのままに30分短縮することは容易ではありません。皆が忙しい時代だからこそ価値的な時間革命、会合革命にさらに挑んでいきたいと地区の皆さんと約し合っています。毎回の地区協議会の中で事前の企画会議、反省会を丁寧に行いつつ、世界に誇る「ザダンカイ」の魅力の発信をわが地区から広げていきたいと決意しています。

私の中にある「アンチ」

私はいわゆる活動家であると思いますが、一方で心のなかには常に、と言っていいほど「アンチ」が存在しています。

 

もともと宗教2世ということが私の学会員としてのはじまりでしたので、学会に入会するかどうかで悩む余地はありませんでしたが、自分がこの信仰を自分のものとして貫いていくかどうかについては悩んだ時期が長かったように思います。だからこそなのかもしれませんが、自分で選んだ創価学会という信仰を貫いていくことについては、それなりのこだわりを持つようになりました。

 

それなりのこだわり、とは私が思い描く学会員としてのありようです。それは池田先生の振る舞いや人間革命などの書籍に触れるなかで、また、小さい頃から接してきた身近な学会員さんの姿を通して私自身のなかで段々と形づくられてきた、人としての模範的な振る舞い・生き方・姿です。

 

そのようなこだわりをもつようになった私にとって、先生のご指導と組織での打ち出しとの間にズレを感じたり、幹部の振る舞いにズレを感じることがしばしばあります。そのような時には必ずといっていいほど自分のなかに「アンチ」の心が生まれています。

 

それは、この打ち出しは先生のご指導、精神とズレているのではないか、この幹部の振る舞いは先生の言われる幹部像と大きくズレているのではないか、といった批判の心です。

 

私はこのような自分の中にある「アンチ」を必ずしも悪いものだとは思ってはいません。むしろ大事にするようにしています。理由は2つあって、一つはそれが自分の正直な気持ちだからです。自分の気持ちを否定したり、抑え込もうとしても自分が苦しくなるだけで良いことは何もありません。これは長年の経験によるところが大きいです(笑)。

 

もう一つの理由は、自分の中の「アンチ」を大事にすることで、自分は何に不満を感じているのか、何に疑問を感じているのか、何が嫌なのか。そして、なぜそう思うのかを丁寧に自分に確認することができるからです。

 

これは私にとっては難しく、つらい作業でもあります。それは詰まるところ自分と向き合う作業に他ならないからだと思います。

 

自分と向き合う方法は、誰かに話を聞いてもらう、先生のご指導や書籍を読む、聖教新聞(体験など)を読む、自分の気持ちを書き出してみる、など人によって選択肢は色々だと思います。

 

私はその時の気分、気持ちに応じてそれらの方法から選んでいるような気がします。そのうえで、最終的には御本尊の前に座ってお題目をあげるなかで自分の心を整理し前進の決意に変えていくことが私には労作業であり戦いなのです(汗)。

 

この労作業をやるなかで多くの場合に気付くことがあります。それは、自分の振る舞いも先生のご指導に照らし合わせてみればズレているところも少なくない、ということです。組織の打ち出しや幹部の振る舞いに感じていた「ズレ」は何も外にだけあるのではなく、自分のなかにも厳然とある、と。非常に残念なことに労作業を通してほとんどの場合ここに至るのです(涙)。

 

打ち出しや幹部がズレている!としておけば楽だったところを(笑)、わざわざ自分と向き合うという労作業を選んだことで、自分の中にあるまったく同じ「ズレ」に気付いてしまう訳ですが、この労作業を選ぶという行為そのものが私にとって「信仰」であり、学会員としての私の生き方である以上、避けて通るわけにはいかないのです。

 

結局のところ私のなかにある「アンチ」は、自分が「こうありたい」と思う姿を、他人には「こうあるべきだ」と求めてしまっていることで生まれているのかもしれません。これが私が正義中毒に陥る落とし穴なのかもです(汗)。

 

ともあれ私は、何も打ち出しや幹部のすべてを受け入れなければいけないとか、受け入れる努力をしているということを言いたいのではありません。修正すべきこと、改善すべきことは非常に多いと思っていますし、時代に即した変化は必須だと思っています。

 

それでもなお、だからこそ?なのかもしれませんが、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という人間革命の冒頭に書かれている主題は創価学会という大きな組織を変革するという意味においても同様だと私は理解しています。

 

誰かのせいにしたり誰かにもたれかかるのではなく、複雑な人間模様のなかで、まず自分自身の人間革命からはじめる。ここに創価学会の信仰の圧倒的な主体性を感じています。だからこそ私は自身の人間革命を通して学会をより良くしていきたいと願っています。

 

いずれにしても一介のただのオジサンにすぎない私にこんな大それたことを思わせる創価学会はすごいと思います(笑)。

 

長々と書きましたが、私はこれからも自分自身のために自分の中にある「アンチ」を大切にしていきたいと思っています。

わが地区の4月23日の「大勝利」

私の地区では一年前からある悩みをかかえている女性部の方がいます。その方はなかなか地区に集える状況ではなかったのですが、先日4月23日に久しぶりに地区の拠点に来られました。

 

地区の同志の温かな雰囲気に囲まれて、その方は言葉をつむぐようにしてゆっくりと話をしはじめました。
これまで来たくてもなかなか顔を出すことができなかったこと。悩みの渦中だからこそ感じられた池田先生の温かな心。同志の温もり。家族の愛情。それらが相まって今日、勇気を出してくることができたこと。
「そして何よりも嬉しかったことは、この部屋に入ってきたときに真っ先に目に入ったご祈念項目に私のことが書いてあったことです。しかも、もっと大事な項目があるはずなのに、一番上に書いてくださっていた」

 

その方は泣いていました。その場にいた女性部だけでなく壮年部も涙していました。
皆でこの日、この時を祈り、待っていました。


ああこの瞬間のために私たちは今日まで戦ってきたのだ。

私は勝った。私たちは勝った。

それが皆さん思いだと感じました。
言葉にならない温かな時間が流れました。

 

「さあまた今日からですね」
「地区部長、お題目三唱して」
「ああ、そうでしたね」

 

2023年4月23日。
この日はわが地区の大勝利の日となりました。

そして新たな出発を誓う記念日となりました。

支援活動と立正安国の精神

私は支援活動が苦手です。そんな私がなぜ支援活動をしているのかと言えば、立正安国の精神で、となりますが、その精神とは何かについては正直、自分のなかで漠としたものがありました。

 

先日、地区の皆さんとぶっちゃけトークをしました。テーマは「支援活動のなかで批判を受けた時、皆さんはどんなことを感じていますか?」というもの。このテーマにしたのは何を隠そう私自身が今回の戦いの中でそういった場面があり(だいぶ強めの批判でした…)、 皆さんからアドバイスをもらって心の傷を癒したい、励ましてもらいたいと思ったからです(汗)。

 

このぶっちゃけトークはこれまでのどの会合よりも盛り上がりました(笑)。

 

皆さんからは色んなエピソードが聞けました。そしてわかったことは皆さん自身も公明党が100%完璧な党だなんて思っていないということでした。私が調子に乗って、私なんか誰よりも痛烈に公明党を批判する自信がありますよ!と言うと皆さん笑っていました。(地区の責任者の私がこれでいいのだろうか…と思いつつも)改めて皆さんも色んな思いを抱えながら支援しているのだと知りました。

 

外からの批判だけでなく自分のなかにある批判とも向き合い続けている皆さんの心に、私は「信仰」を見る思いがしました。

 

公明党への不満は当然ある。ではどの政党に任せるか、任せるにたる政党はどこか。
具体的な政党と納得できる理由を明示してくれる人が、どこかにいるのか。

 

そのような政党がないから自分たちで決めて支援活動をしているのだと。
公明党をより理想的な政党に育てるために支援が必要なのだと。

 

そこには主体者として、自ら責任を担おうとの誇りがありました。
地域の幸福責任者としての崇高な「覚悟」がありました。

 

「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」
「種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」

 

御書の通りの皆さんの実践だと思いました。

 

私のなかで漠としていた支援活動における立正安国の精神とはこの「覚悟」のことなのだと思いました。そして、問われているのは公明党云々ではなく私自身の信心なのだと。

 

先週から私の地域でも決起の集いが行われています。【決起】には「覚悟を決めて行動を起こすこと」という意味があるようです。

 

あと4日。私はまだまだ決起できます。
地区の皆さんに教えていただいた「覚悟」の信心で、最後まで力の限り支援活動に挑んでいきたいと思います。

ブロック長から学んだ「信心の戦い」

先日、壮年部の会合がありました。その会合連絡を組織からメールで受けた私の心境は“何のための会合か”が伝わってこない、“この時期にいつもやっているからやる”のではないか、というように思いました。地域の壮年部が参加して良かったと思う会合になるようには私には思えず、そんなモヤモヤした気持ちのまま、地域の壮年部の皆さんに消極的に連絡をしていました。

 

そんな中、あるブロック長の方が仕事が多忙な中、必死に家庭訪問し、当日の参加を呼びかけてくださっていました。ブロック長さんいわく、「皆さんに信心の喜びを伝えたい」と。

 

私は自分が心底恥ずかしくなりました。「仏縁の拡大のチャンス」と捉えたブロック長と、自分で勝手に会合を「評価」したうえで、意味を見いだせないまま連絡をするという無責任な行動をとった私。打ち出された一つの会合を、「信心」で前進の力に変えたブロック長と、「気分」のまま自分と向き合うことの無かった私。真の信仰者はどちらであったかは明白でした。

 

会合が素晴らしいかどうか、ではない。素晴らしい会合だった、集って良かったと参加者に思わせてみせる、との気迫と心配りがブロック長にはありました。ブロック長は幹部に集った壮年部員さんを激励してもらえるようにと、会合終了後、幹部のもとに連れて行き、その壮年部員さんが普段どれだけ頑張ってくださっているかを必死に伝えていました。

 

私はその光景を目の当たりにして、無明に覆われていた自分自身の信心の実情をはっきりと認識し、打ちのめされました。打ち出しに対して疑問やモヤモヤを感じることは誰にでもあることだとしても、それを前進の力に変えていくところに「信心の戦い」があるのであって、「気分」で留まっていては自身の成長は望めないのだと痛感しました。

 

今回、自分の慢心と無責任さを改めて自覚する機会となりました。あまりにも反省すべきことが多いのですが、今後、打ち出し内容によっていかなる「気分」が生じたとしても、地域の皆さんにお伝えする前に、自身の内面で消化し、昇華するところまで自身と向き合う「信心の戦い」をしていこう、私の責任を果たしていこうと決意しました。

ブログを書くきっかけ

私はまわりにいる信心の先輩方や同志の皆さまから、学会活動の中でたくさんのことを学ばせていただいていて、とても幸せ者だと思っています。

 

先日、ふとこの一年間を振り返った時に、一年前の自分は信心のことや創価学会のことをよくわかっていなかったなぁとしみじみと思いました。

 

残念ながら今もよくわかっていないのですが(汗)、一年前はもっとよくわかっていなかった。一年前の自分の言動を思い出すと恥ずかしくなります。

 

そんな私がブログを書こうと思ったのは、今から一年後、自分のブログを読み返した時に、先日と同じように、一年前の自分は信心のことや創価学会のことをよくわかっていなかったなぁ、と感じられたらいいなぁと思ったからです。

 

まわりの人たちはおそらく全く感じてないと思いますが(汗)、池田先生と同志の皆さまの励ましのおかげで、私自身は一年前の自分に比べれば今の自分は大きく成長できたという実感があります。

 

そして、一年後にも同じように感じられる自分でいたいと思ったんです。なのでこのブログは自分の信心の現在地をさらす恥ずかしいブログになると思います。それでも書くことで日々自分をアップデートできるのではないかという気持ちが勝り、恥を忍んで自分の成長のために書いてみることにしました。

 

どれくらいの頻度で書けるかはわかりませんが、活動で悩んでいること、工夫してみたこと、失敗したことなど、できるだけありのままに書いていきたいと思っています。

 

今後書いていくブログの内容について、私自身のアップデートのためにいろいろな方からご意見やアドバイスをいただけると嬉しいです。
宜しくお願い致します。